『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。
はじめに序論を置き、神代・地神について記している。つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。伝本によりこれを上中下または天地人の3巻にわけている。その場合、序論~宣化天皇・欽明天皇~堀川院・鳥羽院~後村上天皇と区分している。
神代から後村上天皇の即位(後醍醐天皇の崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記される。
君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。だがその一方で、『仏祖統紀』や宋学(特に「春秋」・「孟子」・「周易」)の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。従って、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」という一見矛盾した論理展開も見られるが、これも徳治を重視する親房から見れば、「正理」なのである。大町桂月は、これを「この一節、仁政を力説す。頼朝・泰時は虚にして、仁政は実なり。親房の頼朝・泰時を襃むるは、即ち仁政を襃むる也。千古の公論なり」と云っている。また治承・寿永の乱の混乱期に神器を欠いた状態で後白河法皇の院宣により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。
全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と公家(=摂関家と村上源氏)が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとし、特に公家や僧侶を「人(ひと)」、武士を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。
北畠親房が常陸国で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照に書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される。
執筆時期については、後醍醐天皇が崩御して、新帝・後村上天皇が即位した延元4年/暦応2年(1339年)の秋ごろであると言われている。後村上天皇に献上された書ではあるが、奥書には「ある童蒙」に宛てるとされており、天皇を童蒙扱いするのは有り得ないという指摘がなされている。これについては、本来は結城親朝に宛てたものであるが、後に改稿した上で後村上天皇に献上したものと言われている。
南北朝統一後、北朝正統論を唱える室町幕府の影響下に改竄や、続編と称しながら親房の論を否定する『続神皇正統記』(小槻晴富)が書かれた事もあった。だが、徳川光圀が「大日本史」で親房の主張を高く評価し、また親房からすれば、本来否定されるべき存在である筈の江戸幕府の中にも泰時の例などを引用して「武家による徳治政治」の正当性を導く意見が現れるようになった。
水戸学と結びついた「神皇正統記」は、後の皇国史観にも影響を与えた。だが、明治になってから逆に国粋主義の立場から儒教や仏教、異端視された伊勢神道の影響を受けすぎているという理由で、重訂という名の改竄(親房思想の否定)を行う動きも起こったが、これは定着には至らなかった。『神皇正統記』研究が再び興隆するのは、現実政治から切り離された、戦後暫くたってからのことである。
承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。
——源頼朝は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。ましてや、頼朝の妻北条政子や陪臣の北条義時がその後を受けたので、これらを排除しようというのは理由のないことではない。しかし、天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない。また、王者(覇者でない)の戦いは、罪ある者を討ち罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い官位に昇り、守護の設置を認められたのは、後白河法皇の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない。しかし、臣下が上を討つのは最大の非道である。最終的には皇威に服するべきである。まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった。もしくは、天下の情勢をよく見て、戦いを起こすかどうかを天命に任せ、人望に従うべきであった。結局、皇位は後鳥羽の子孫(後嵯峨天皇)に伝えられ、後鳥羽の本意は達成されなかったわけではないが、朝廷が一旦没落したのは口惜しい。
— 「廃帝」より
また、後醍醐天皇の政策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記事も載せている。
王朝が非常に古いという「万世一系」の主張は、日本の自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。
日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。『神皇正統記』では以下のように論じている。
——モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前三三〇八年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。
— 『神皇正統記』
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北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。
正応6年(1293年)6月24日、生後わずか半年で叙爵。徳治2年(1307年)11月、左少弁に在任の際、清華家の北畠家よりも家格の低い名家出身の冷泉頼隆が弁官となったことに憤激して職を辞した。自らの家格に対する強烈な自負がうかがわれる。延慶元年(1308年)11月、非参議従三位として公卿に昇進。延慶3年(1310年)12月、参議に任じられ、翌応長元年(1311年)7月に左衛門督に任じ検非違使別当を兼ねた。同年12月、権中納言に昇進する。
後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と称される篤い信任を得た。後醍醐天皇の皇子世良親王の乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323...